アン・ケース,アンガス・ディートン『絶望死のアメリカ』(2021)

絶望死の発見

トランプ現象が起きた一つの要因にラストベルトの人たちからの反発を受けたことが挙げられる.ヒラリーは白人至上主義者や差別主義者を「惨めな人々」と呼んだつもりであったが(もちろんそれは褒められた行為ではない),結果的に白人労働者階級全体を敵に回すことになる.なぜ「惨めな人々」という暴言が白人労働者階級全体に突き刺さったのか?それを紐解くヒントがアン・ケース,アンガス・ディートン『絶望死のアメリカ』の中に記載されている.

彼らは米国疾病予防管理センター (CDC)のデータを分析しているうちに奇妙なことに気付いた.中年白人男性の間で,死亡率や自殺率が増加しているという結果だ.なぜ自殺率だけでなく,死亡率も増加しているのだろうか?死亡の原因をさらに調べると,増加率が高いのは,1) 自殺,2) 薬物(オピオイド)の過剰摂取,3) アルコール性肝疾患の三つである.これらはどれも自身が招いた結果である.著者らはこれを「絶望死」と名付けた.

絶望死が増加しているのは,ほとんどが大学の学位を持たない人である.これはこれまでの傾向からは奇妙な結果であった.自殺は学歴が高い人たちの間で一般的な死因であった.現在の絶望死はこれまでとは異なる傾向を示しているのだ.

専門家社会となることで,大卒や高学歴に対する需要が高まった.大卒の女性が増え,人は似たような趣味や背景を持つ相手と結婚する傾向があるため,大卒以上の学歴は高賃金の仕事を手に入れる切符であるだけでなく,高賃金×2の切符でもあった.このように学歴の高低は世界を分断する一つの要因となっている.これはマイケル・ヤングが1958年にメリトクラシーによる社会的大惨事の予測に通じている.

痛み

痛みの中には社会的苦悩やコミュニティ内での苦悩も含まれる.痛みとは自殺の重要なリスク要因である.耐え難い痛みが改善しないと信じて,絶望するのだ.そして,痛みの治療はオピオイド・エピデミックの根源である.オピオイドは高揚感と痛み緩和の両方を支配する.

近年,ますます多くのアメリカ人が痛みを訴えるようになってきており,増加率が最も高いのは大学を出ていない中年世代である.住民の学歴が高い地域ほど痛みの報告は少ない傾向にあり,失業率が高く貧困な地域ほど高い.2016年にドナルド・トランプに投票した人々の割合も地域内の痛みを感じる割合と強い相関がある.

オピオイド

オピオイドとはアヘンそのものやモルヒネといった天然の誘導体でオピエートと呼ばれるもの,またはほぼ同じ特性を持った合成物及び半合成物で,専門的にはオピオイドと呼ばれるものだ.今では習慣的にはどちらも「オピオイド」と呼ばれる.薬物死の70%がオピオイド単独または他の薬物との併用によるものだ.オピオイドは痛みを和らげてくれるが,加えて快楽や高揚感ももたらせる.オピオイドは中毒・依存症につながりやすいが,1990年代後半から疼痛管理の考え方が変わり始めた.その結果,膨大な量の強力なオピオイドが放出された.2012年までに全アメリカ成人が1ヶ月に処方できる量のオピオイドの処方箋が書かれている.2016年には17,087人が処方箋のオピオイドによって死んでいる.医師が処方したオピオイドは2017年に発生した全てのオピオイドによる死のうち,実に1/3に責任がある.なぜこのような濫用が起こっているのだろうか?

米国において,多くの医師が非常に厳しい時間や予算制約の中で働いていたため,薬を処方するだけで済むという医療行為はもっと高価で時間のかかる治療と比べてはるかに魅力的であった.プライマリ・ケアでも,歯科医も緊急医もあらゆるタイプの怪我に対してオピオイドを処方した.

宗教が破綻する中でオピオイドは大衆のアヘンとなった.違法ヘロイン,フェンタニルといった薬物は処方オピオイドよりも効果的にハイになれるためさらに広がっていった.オピオイドのエピデミックの原因は複数ある.製薬会社は薬物を作って精力的に販売し,連邦議会議員は意図的な過剰処方をアメリカ麻薬取締局 (DEA) が取り締まれないようにした.食品医薬品局 (FDA) は幅広い社会的影響を考慮せずにこれらの薬物を承認し,消費量と利益が激増した.メキシコや中国の麻薬売人は医療専門家らが手をひき始めた後に入り込んできた.しかし,このエピデミックはアメリカでのみひどく,他の大半の富裕国ではほとんど見られない.例えば,少なくとも日本ではこれらのオピオイド・エピデミックは起きていないし,アメリカでオピオイド中毒が社会的に問題になっていることすら知らない人が多いだろう.なぜアメリカでだけ起きたのだろうか?

上記はオピオイドの供給側の問題であるが,需要側の問題として,学士号を持つアメリカ人がオピオイドの過剰摂取で死ぬことがほとんどないのはなぜだろう?過剰摂取死の90%は4年制大学の学位を持たない層である.なぜ学歴なのだろうか?

学歴が生み出す格差

以前は大卒でなくても誇りのある職は多く用意されていた.しかし,派遣業といった形で労働者の差別化がなされていくことにより,大卒と非大卒の賃金の差は広がる一方である.それにより,職場での居場所がなくなるだけでなく,家庭でも影響が出始めた.学歴の溝は労働市場だけでなく,結婚,子育て,宗教,社会活動,コミュニティへの参加などでも広がった.数字だけで見れば,非大卒アフリカ系アメリカ人の方が非大卒白人よりも数字は悪い.しかし,非大卒アフリカ系アメリカ人の値(賃金や他の社会的指標)は日々改善している一方で,非大卒白人の値は日々悪化している.その傾向と死亡率の傾向は類似している.

原因は何か?

アメリカの医療は他の先進国と比較しても金をかけており,世界最高クラスの病院や医師を誇る.医療制度にも問題が当然あるが,一番の問題は医療費の莫大なコストである.それにより,賃金を引き下げ,連邦及び州政府の予算から公共財や公共サービス向けの資金を食い潰している.医師,病院,製薬会社,医療機器メーカーは医療費を引き上げる形で共謀している.

結局のところ,現代アメリカの問題は不平等ではなく(もちろんそれも問題だ),不公平な社会となっていることである.つまり,貧乏人から少数の富裕層への移転が行われる仕組みとなっている.低賃金労働者は,まず低賃金国からの移民との競争にさらされる.また,外国の低賃金労働者の作る商品とも競争する必要がある.さらにはロボットとも競争しなければいけないかもしれない.移民問題は常に政治的な話題の中心となるが,ひどいアメリカの現状を作り出しているのは,アメリカ独特な人種の歴史,限定的な福祉提供,そして呆れるほど高い医療システムである.